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第2弾どころか(4) [陸貞伝奇]

ところで、当然今の時代なら、陸貞が女侍中に
なったなら、それどころか昭儀になったときに
格好のネタになるのだろう、まあスキャンダルも

たとえばこうなるのかな(苦笑)

中華初女性宰相!
そのすべて(とか何とか)
本名:陸貞(実父陸謙長女、養父陸賈長女)
出身地:鄴市街(陸賈本邸)

父:陸謙(威烈侯將軍)
母:薛瑾(郁皇后内侍長 五品) 陸賈第二夫人
義父:陸遜(陳国尚書:陸謙弟)
義母:和康郡主(陳国皇室)
養父:陸賈(鄴随一御用商人)
兄:陸元(早逝)

婁昭君による郁皇后謀殺に関連して
実父は遠征中に婁家により謀殺され
実母は郁皇后に託された婁昭君の
毒薬を解析した関係で呼び出されて
兄陸元とともに入水し、兄は死亡したが
母は生き残り、追手の目をごまかすため
陸賈の妾となる(おなかに陸貞を
身ごもっていた(命名由来は元貞利亨
形見として、九鸞釵を残す。)

陸貞は様々な困難に遭うも六品司衣に
自力で昇進して「養父の敵」をとり、
さらに第一次・二次皇太后事変を経て
ついには皇太后・婁昭君という父母の
敵を討った。

そもそも数え22歳そこらで一品女侍中
まで昇進できたかというと、もちろん
前皇帝・皇后及び現皇帝の引き立てが
あったからこそだが、それを可能にしたのは
幼い時から、養父の潤沢な財力と国際色
豊かな実家の環境により、磁器骨董から
織染錦に宝石貴金属の目利きに始まり、
後宮内一の才女である母(薛瑾)から
琴棋書画の手ほどきを受け、お稽古事
で読み書きそろばんを師について習う。
生来の頭の良さと運動神経が抜群であり
実家の商売の半分を切り盛りしていたことは、
すでに数え17歳の時点で鄴の街で
知らない人はいないほど評判となっていた。
特に磁器の才能はとびぬけていて、
陸貞が養父実家を出奔した後は、磁器を
宮中に納品できなくなったほどである。

もちろんこのような耳目であるため、
皇太后及び婁氏の残党狩りから逃れる
ために官籍も乗せることはなく、それが
その後の陸貞本人を苦しめることになった。

それが、官籍偽造問題であり、殺人未遂
事件の真相である。

無事婁一族誅殺、皇太后自決により
本人の官籍及び名誉は復活となった。
(ただし、事後のため陸孫養女として措置)

前皇帝即位時の柔然人区別の際に
便宜を計らったことが現皇帝との初見で
その後、趙夫人(陸賈正室)の謀略により
王氏の第4夫人として婚姻させられようと
したところ、婁尚侍の輿で待機した隙に
逃亡、その逃走に貢献したのが現皇帝
その後偽官籍事件を経て、現皇帝暗殺未遂
事件の現場に遭遇することになる。

ここでの滞在期間が、至上の時だった
ことは後に現皇帝、陸貞両名へのインタで
確認できることである。

暗殺未遂現場に遭遇した陸貞は、
自作の担架で30里も離れた都郊外
王村の荒ら屋に搬送のうえ、匿った。
現皇帝(長公王)暗殺未遂事件時に
暗殺者によって現皇帝が負った刀傷
(筋が切れて再起不能の現皇帝の
右腕の刀傷)を陸貞本人が医者も
恐れて実施しない程の傷を縫合し
完治させる手当をさせたこともあり
この3回の遭遇がお二人を固い絆で
結んだことは明々白々である。
しかも、婁氏の追っ手に追われて
(陸貞の方は官籍偽造時の殺人
未遂で追われたと誤解していたが)
二人で逃走したが、崖に追い詰められた
ところで、勢い余って陸貞が谷底へ
現皇帝が傷ついた右腕一本で
引き上げようとしたが、共倒れを
避けるため自ら手をはなした陸貞。

まさに劇を見ているような展開だ。

その後、現皇帝に手交された長公主の
玉佩を活用して、宮中にもぐりこむ
ことに成功した陸貞は、その才能と
努力で、皇太后還暦記念品で首席。
数え年17歳のことである。
冷宮に配属されたものの、見事な
奉公から、青鏡殿で2級宮女に
飛び級で抜擢され、太皇太妃の遺言
により1級宮女(筆頭)に推挙された。

その後婁氏の謀略により、青鏡殿が
放火された時には、閉じ込められた
陸貞を現皇帝が救出したことは美談

その年の女官試験に遅刻した理由は、
陸貞から帯を現皇帝に手交したのに
その意味を知らなかった現皇帝は
周囲に女官等の気配を感じ取った結果
むごいことに、その場で本人に暴言を
吐いた上、帯を突き返したため、
陸貞本人はやけ酒をあおり寝坊した。

しかも実技で七宝瓔珞を作成するはずが
沈碧の妨害により、作成が困難となり
その結果白磁の瓶子を焼くことで克服した。
ただ、王尚儀と婁尚侍の争いに巻き込まれ
殿試追試の形で内密に5日後までに
白磁を作成することで合意を得た。

困難があったが、黒化が磁石に含まれる
砂鉄に原因があったことを突き止め
無事に白磁を作成し、八品掌珍に抜擢された。

その後、七品昇進後八品に降格もあったが
全ては政争に巻き込まれてのことであり、
翌年の女官試験で筆記・実技双方首席の
1席となり七品に復帰、官窯の稼働の実績
から六品司衣に昇進、結果大理寺に起訴し
養父の敵を討つことに成功した。

その後、吐谷渾との「磁器販売及び西域
代理販売権」の大型契約に成功(年20万両
3年契約)した成果、並びに後宮財務の再建
の白羽の矢から、五品尚宮に抜擢された。
(このとき数え19歳、残り二人は尚侍31歳
尚儀29歳であった。)、そのときの監査は
まさに謀略が飛び交い、結局2万両を陸貞
自身が払うはめになった。(陸家養父実家
から調達した。すでに陸貞が立て直しに
成功していたので、十分に支払うことができた。
また宮廷との取引において額を調整することで
2万両を軽く捻出できるほど、大きな額を
陸家のみで取引していたのだから恐れ入る)
まあ大臣の家と比較できないほどの
圧倒的な門構えの豪邸で、そこの長女として
仕切っていたのだから、加えて自分の部屋を
陸邸及び青鏡殿を比較しても理解できる。)
その後、野蚕錦の生産拡大に成功した結果
織染織の設立となり、初代長官に抜擢された。
そのため従三品昭儀に昇進したため
朝議にも該当案件に限ってだが出席した。

このとき、官窯による年間20万両以上の
売り上げと陸錦による年間数十万両の
売り上げで年間の国家予算規模の金子を
扱うまでになっていた。

そのため、皇太后事変でも官窯と織染の
利権は最後まで攻防が繰り広げられた。
(その時点で数十万両との発言有り)

第1次皇太后事変では、人質に甘んじる
ことなく城壁から飛び降りることで
現皇帝率いる政府軍を勝利に導き
第2次皇太后事変では、その決断と勇気
により、国璽と鳳印を預かり、皇子の養母
となり(先帝の妃:昭儀)、ついには
決死の覚悟で祭天の儀に乗り込むことで
皇太后の野望を砕き、皇太后を自決させ
実父母の敵を討つことに成功した。
そのとき未だ数え19歳であった。

そこから3年間の出奔があり(陳国との
皇后冊立問題と現皇帝健康問題)
数え22歳で一品女侍中に昇進の運びに
(これは王荘でのやりとりが現実化した)
実際農業商業を管轄することから
国庫の生死をも握っている状況
(国税以上の金子を国庫にもたらしている)

残念なのは事変のケガの関係上
皇子(女)を身ごもることができないことと
皇后冊立の関係上、昭儀のままと
いうことだろうか(宮籍(皇籍)上
正妃は陸貞となっている)
本人も女官として在位したいので
皇后冊立を辞退した(3年前には
前皇帝妃の喪中により一旦棄却)
(事変時の詔から陸貞は前皇帝妃
でもある。現皇帝正妃(内々)、
前皇帝妃:昭儀、現皇帝妃:昭儀)

まさに波瀾万丈の生活を送ってきた
一品女侍中陸貞殿から目が離せない。

後宮でなにより長広王と縁をと多い中で、
身分差を気にして避けるというまれな感覚
釣り合う身分で玉の輿を考えない。
何度も家庭に入るのを拒否し結局
皇帝妃となっても女官としての仕事を
捨てなかったキャリアウーマンの元祖

皇后、玉翹、臘梅そして陸貞といい丸顔
童顔、大きいお目目の3点セットがお好みの
現皇帝陛下

さて六司は別格だと本人も感心したが
司宝司には、10人の一等宮女を含む
総計68人の宮女に
九品儀珍、八品掌珍、七品典珍、六品司珍
営造、収蔵、修飾、宝庫、雑務の5部がある






「後述」
それから10年間は一時衰退した官窯
及び織染も盛り返し、3年間の出奔時に
新たに開拓した案件も含め拡大成長
軍事力も充実し、平和な時期を送った。
皇后が事情により幼年同様のため
鳳印及び金印(表裏)を掌握したので
後宮を実質的に支配することとなった






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